東京大学政策評価研究教育センター

背景:原発事故の被害額の試算をめぐる困難



画像提供:多瑠都 / PIXTA(ピクスタ)

2011年に起きた東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故を受けて、それまで政策的にも進められてきた原子力発電の是非について激しい議論と検討が重ねられてきた。事故から7年以上経過した現在でも、避難生活を送る被災者の生活には改善されない部分も多く、事故をめぐる補償、周辺地域の除染その他の動向、廃炉に向けた作業等々、将来にわたる課題が山積している状況には変わりがない。また、多角的に議論が進められてはいるものの、原発政策や電力政策の目指すべき方向も必ずしも明確ではない。一方で、今後の電力政策を考えるにあたっては、特に原子力発電に依存することのメリットとデメリットを踏まえて冷静に分析し、検討してくことが重要である。このような重大な問題であるからこそ、できるだけ正確に原子力発電のコストとベネフィットを十分に見極めたうえで冷静に議論を重ね、意思決定につなげていくことがより必要とされる。

とはいえ、「コストとベネフィットを踏まえるべきだ」と言うのは簡単だが、実際に測定しようとするとさまざまな困難に直面することになる。まず、原子力発電のコストを考える場合に避けて通れないのが、事故による損害の程度を評価することであろう。その一方で、重大な事故であるほど被害の範囲や規模は大きくなり、避難指定や賠償の対象となる直接的な被害を受ける地域はもちろん、相対的に遠くそれらの対象とならない地域にまで、土地や農産物等含めさまざまな影響が及ぼされることが懸念される。福島第一原発事故では、政府をはじめ、避難指定や賠償等の対象地域における被害額の試算は行われているものの、それに該当しない地域の被害額の見積りについては明らかにはされていない。しかしながら、原発事故の後、福島原発から相対的に離れそれらの対象とならない北関東や千葉県等の地域の農産物や土地の価格や購買行動等に大きな影響を受けたことは周知の事実であろう。

政府が行った福島第一原発事故の処理にかかる費用額の試算は、2014年の段階では11兆円を見込んでおり、2016年12月に発表された新しい試算では22兆円と見込んでいる(経済産業省「東京電力改革・1F問題委員会 提言案骨子案」2016年12月、日本経済研究センター「福島第一原発の国民負担:事故処理費用は50兆~70兆になる恐れ」2017年3月)。ただし、これらは、大まかに廃炉・汚染水処理、賠償、除染にかかる費用を合計したものであり、避難指定区域、または除染・賠償の対象となる地域で発生する費用に基づくものである。したがって、先に触れたような、それらの対象とならない地域に及ぼした影響は含まれていない。そのため、これらの影響も加味すれば、推計される被害額はさらに大きなものとなる可能性が高い。このように考えると、「避難指定や賠償の対象とならない地域の土地等の取引価格が原発事故による放射能汚染等の原因によってどれほど下落したのか」、という問いのもとで被害額を明確に示すことは、原発事故のコスト全体を考える際に、既存の政府等の推計を補完し、より広域かつ包括的に実態を捉える意味でも重要だと考えられる。 また、原子力発電の事故自体は、これまでを振り返っても非常にレアなケースであり、実証的に被害額を分析した研究は決して多くはない。各国を見渡してみても、現時点では具体的な事故の被害額を分析した研究をみつけるのは難しい。たとえば、チェルノブイリ原発事故に対する実証的に事故が土地価格等に及ぼした影響を分析した研究は見当たらず、アメリカのスリーマイル原発事故を対象とした分析がわずかに存在する程度である。一方、日本においては、福島第一原発事故を対象とした研究が進められており、事故後の土地価格(地価)の下落によって被害額を評価する研究も行われている。たとえば、広島市立大学の山根史博氏らによる分析(Yamane, Fumihiro, Hideaki Ohgaki, and Kota Asano "The Immediate Impact of the Fukushima Daiichi Accident on Local Property Values," Risk Analysis, 33(11): 2023-2040, 2013)や、武蔵大学の田中健太氏と九州大学の馬奈木俊介氏による分析(田中健太・馬奈木俊介「福島原発事故の地価への影響:ヘドニック・プライシングモデルによる影響分析」『季刊 住宅土地経済』103: 16-25頁、2017年)等が挙げられる。ただしこれらの分析では、地価に「公示地価」のデータが用いられている。公示地価とは、国土交通省が毎年公表するその年の1月1日時点の評価額である。公示地価は、実際の取引価格だけでなく不動産鑑定士による評価も反映される。しかし、原発事故の影響を踏まえた土地取引には過去の前例がほとんど存在しないため、鑑定士がどのような基準やプロセスによって地価を評価したかは必ずしも明らかではなく、実際の土地への需要や取引動向を正確に反映したものではない可能性も指摘されている。

これらの問題や懸念を克服し、なかなか注目が集まりにくい避難指定や賠償の対象とならない地域が受けた原発事故の影響の分析と被害額の推定に挑んだ論文が、「論文プレビュー」で紹介するKawaguchi and Yukutake (2017) である。本論文では、実際の取引価格のデータを用いることで、公示地価を用いる場合の問題を克服しようと試みた。ただし、実際の取引価格のデータを用いる場合には別の問題に直面する可能性がある。それは、ある地域が受けた事故の被害が甚大である場合に取引そのものが生じなくなってしまい、本来であれば土地の価値が大きく下落しているにもかかわらず、そのことがデータに反映されないという問題である。この点に対して、本論文では被害額の想定に幅を持たせて推計し、最悪なケースを上限に設定するという形で推定方法に工夫を加えることで、この問題を克服して、実際の取引価格を用いた被害額の試算を行った。

本論文によれば、日本全体でおおよそ1.5~3兆円程度、原発事故の後に地価が下落したことが示されている。先ほど触れた政府の試算では、原発事故の処理費用が2014年時点で11兆円、2016年時点では22兆円と見積られていた。これらと本論文の推計結果を比べると、前者に対しては14~27%、後者に対しても7~14%の規模となる。本推計の分析が宅地に限定されたものであることも踏まえると、避難地域外に及ぼした被害額は決して小さくはないことがわかるだろう。このこと点からも、より広い範囲で包括的に事故の被害額を明らかにすることは、望ましい補償や今後の対策を考えるうえでも重要であると言える。「論文プレビュー」では、本論文が用いたデータや分析上の工夫から結果までを紹介する。

「論文プレビュー: 福島第一原発事故による避難指定区域外の「見えざる被害」に迫る」へ

CREPEフロンティアレポートシリーズはCREPE編集部が論文の著者へのインタビューをもとにまとめたものです。