東京大学政策評価研究教育センター

CREPECL-13 社会問題の因果関係を解明する「自然実験」の確立:ノーベル経済学賞2021


川口大司(東京大学公共政策大学院・経済学研究科教授)



はじめに

2021年のノーベル経済学賞は、カリフォルニア大学バークレー校のカード(David Card)、マサチューセッツ工科大学のアングリスト(Joshua Angrist)、スタンフォード大学のインベンス(Guido Imbens)の三氏に贈られることが決まった。

受賞理由は、原因と結果の関係(因果関係)を明らかにするための「自然実験」と呼ばれる方法を確立し、重要な社会問題に応用してきたことだ。スウェーデン王立科学アカデミーは特に、カードの労働経済学への実証的な貢献、アングリストとインベンスの因果関係を分析するための方法論への貢献を受賞対象として、このアプローチは他分野にも広がり、実証研究に革命をもたらした、と評している。本稿では、三氏の貢献とその背景、および彼らがその後の実証研究や政策などに与えた影響を解説する。

自然実験とは?

三氏の貢献に共通するのは、個人や家計単位、あるいは個々の企業単位を捉えた個票データ(ミクロデータ)を用いて、ある現象における因果関係を推定するための方法を確立し、それを労働市場などにおける重要な社会問題に応用してきたという点だ。通常、データから因果関係を特定するのは非常に難しい。なぜなら現実の社会・経済では、自然科学で行われる統制実験のように、原因に当たる被験者への介入(処置)を人為的に操作することで、結果への影響を直接確かめるのが難しいからだ。2019年にノーベル経済学賞の受賞対象となったのは、ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trials:RCT)と呼ばれる手法により、現実社会で実験を行って政策効果を検証する研究であった。しかし、そうした社会実験が行える場面は必ずしも多くない。

一方、今年の受賞対象である「自然実験(Natural Experiment)」は、社会制度や歴史的な偶然によって、あたかも統制実験のように原因(処置)が操作されたかのような状況を用いて、因果関係を推定する方法だ。まさに、実験ができない状況で因果関係を解明するために威力を発揮する。カード、アングリスト、2人の指導教員だったアッシェンフェルター(Orley Ashenfelter)、そして2人の共著者だった故クルーガー(Alan Krueger)など、1980年代後半にプリンストン大学に教員・学生として在籍した労働経済学者たちが中心となって、自然実験を用いて現実社会で観察されたデータから因果関係を見出す方法を発展・普及させてきた。

このアプローチの重要性がよくわかる例の1つが、「ベトナム戦争への従軍経験が退役後の人々の所得にどのような影響を与えたか」を分析したアングリストの研究だ(Angrist 1990)。退役軍人に適切な補償をするためには、従軍経験が所得にどのような影響を及ぼすかを把握する必要がある。しかし、ベトナム戦争に従軍した経験のある者とない者を単純比較しても、従軍経験が所得に及ぼす因果効果を正確に導くことはできない。なぜなら、民間での仕事に就きにくい人や、高所得の職を得にくい人が積極的に軍に志願している可能性があるからだ。そうした人々は従軍経験に関係なく所得が低い可能性があり、両者は独立には決まらない。このような状況を「内生性の問題が発生している」と言う。

この問題に対処するため、アングリストはベトナム戦争への従軍者の一部が誕生日に基づくくじ引きで決定されていたという事実(自然実験)に着目し、ベトナム戦争への従軍経験が所得に及ぼす因果的な影響を検証した。その際、「くじで選ばれた人の中に従軍しなかった人がいる一方で、くじで選ばれなかったけれども自発的に従軍した人がいる」という状況に対処するため「操作変数法(Instrumental Variables:IV)」と呼ばれる手法を用いた。古くから存在するこの手法にアングリストが与えた新しい解釈は、「ランダムに割り振られた処置に対して人々が必ずしも従わない場合にも、処置の結果への因果関係を明らかにできる」という、操作変数法の性質を際立たせるものであった。彼のアイデアは、後にもう1人の受賞者であるインベンスや、統計学者のルービン(Donald Rubin)との共同研究を通じてさらに洗練され、「自然実験を利用した操作変数推定は、一体何を測っているのか」を明確に定義し、その後の実証研究の流れを方向づけた。この点は改めて第4節で解説する。

もう1つの例は、カードによる移民の流入が賃金・雇用に与える影響の分析である(Card 1990)。彼は、1980年にフロリダ州マイアミに大勢のキューバ難民が流入したという事実(マリエル難民事件)を用いて、移民の流入は必ずしも自国民の賃金・雇用の低下には結びつかないことを示した。この結果は、「労働供給の増加が賃金を抑制する」という従来からの通念に一石を投じるものだった。しかしこの研究は、その後大きな議論を巻き起こすことになる。この点も含めて、次節ではカードの貢献を詳しくみていこう。

自然実験で労働市場の通説を打破

カードは、労働経済学で議論されてきた重要なテーマに自然実験を応用し、従来の通念を打破するような新しい知見をさまざまに提示してきた。しかし、それらはしばしば批判にさらされ、論争も巻き起こしてきた。ここでは、多岐にわたるカードの研究の中でも、特に前述の移民流入と賃金・雇用の関係、および最低賃金と雇用の関係を分析した研究にフォーカスし、カードの研究とそれに端を発した論争を通じて、彼の貢献を整理していこう。

移民流入は賃金を下げるのか、下げないのか?

移民の受け入れ拡大に反対する人々の論拠となるのが、「移民の流入が自国民の賃金を下げる」というものだ。単純な労働市場の需要・供給モデルを考えると、移民の流入は労働供給を増やし賃金水準を下げることが予想される。しかしながら、地域別のパネルデータを用いて移民の流入がその地域に住む自国民の賃金に与える影響を推定するのは難しい。なぜなら、移民がどの地域に流入するかがランダムには決まらないためだ。移民は移住先の国や都市を決めるにあたって、失業率や賃金水準といった地域ごとの労働市場の状況を比較することになる。その際、地域経済が活況を呈していて失業率が低く、賃金が高い地域に流入する傾向が強い。そのため、移民は賃金が高い地域に多く流入するという因果関係がある。こうした先の主張とは逆の因果関係もあるため、移民の流入が自国民の賃金に与える因果効果を推定することは難しいのだ。

この困難を、キューバ難民のフロリダ州マイアミへの大量流入を自然実験に用いて克服したのが、前述したカードの1990年の論文だ。社会主義国であるキューバからアメリカに難民として移住したい人々は多いが、通常はキューバからの出国が認められないため難しい。しかし、1980年の半年ほど、高まる国内の不満に対応するためキューバ政府は難民の流出を許可した。この半年ほどの間に約12万人ものキューバ難民がアメリカに到着し、その多くはもとよりキューバ移民が多かったフロリダ州マイアミに流入した。カードは、マイアミの人口をおよそ7%増加させるほどの大きなインパクトであったにもかかわらず、マイアミのアメリカ人の賃金は低下しなかったと報告した。

この研究に対して、ハーバード大学のボラホス(George Borjas)が、「労働需要曲線は右下がりだ」と題した論文を発表するなど強い批判がなされた(Borjas 2003)。この論文は、マイアミのアメリカ人の賃金が下がらなかった理由は、マイアミからアメリカ人が流出したからだと考えるもので、「アメリカ全体を1つの労働市場としてみることが必要だ」という主張がなされた。ボラホスはアメリカ全体を分析対象としつつも、移民の年齢や学歴が時代とともに変化することを用いて、移民の増加が、移民と似たような属性を持つアメリカ人の賃金を低下させることを明らかにした。

一方で、カードの発見を所与として、移民が流入しても必ずしもその地域に住むアメリカ人の賃金が下がらない理由を探るという研究も進んだ。ダートマス大学のルイス(Ethan Lewis)は、生産要素として労働と並んで資本が重要であり、資本は労働に比べると地域間を自由に移動することに着目した(Lewis 2011)。移民が大量流入した地域の資本への投資が他の地域に比べて抑制されるならば、他の地域に比べて労働需要の減少が限定的であることを指摘し、実際に移民が大勢流入した地域では機械化のための投資が遅れることを実証した。

また、カリフォルニア大学デービス校のぺリ(Giovanni Peri)とコルゲート大学のスパーバー(Chad Sparber)は、移民とアメリカ人が異なる仕事をしていると想定したモデルを推定することで、移民労働者とアメリカ人労働者が補完的であることを示す論文を発表した(Peri and Sparber 2009)。移民とアメリカ人が補完的な関係であれば、移民の流入はアメリカ人の賃金を低下させるとは限らない。

こうしたその後の展開が示すように、カードのキューバ移民論文は、移民が労働市場に与える複雑な影響を明らかにする多くの後続研究が生み出されるきっかけをつくったのである。

最低賃金は雇用を減らすのか、減らさないのか?

カードのもう1つの代表的な貢献が、最低賃金が雇用に及ぼす影響を分析した研究だ。カードは、共著者であるクルーガーとともに、1992年4月1日からニュージャージー州の最低賃金が引き上げられた一方で、隣のペンシルバニア州では同時期に最低賃金の変更がなかった。この事実を自然実験として用い、最低賃金の引き上げが雇用に与える影響を検証した(Card and Krueger 1994)。

カードとクルーガーは、ニュージャージー州とペンシルバニア州において、同じ経済圏に属する州境のハイウェイ沿いにあるウェンディーズやバーガーキングなどのファストフード店を対象に、最低賃金引き上げ前後で従業員数を調査し、雇用量の変化を調べた。その結果、最低賃金引き上げという処置を受けていないはずのペンシルバニア州では雇用が減少していた一方、処置を受けたニュージャージー州では雇用が微増したことを明らかにし、「最低賃金引き上げが必ずしも雇用を減少させるとは言えない」と結論付けた。

しかしその後、この研究は多くの批判にさらされ、論争が巻き起こる。まず批判されたのは、この研究が電話調査に基づいてファストフード店の従業員数を尋ねたものであったため、測定誤差が大きい可能性があるという点だ。そこで、ニューマーク(David Neumark)とワッシャー(William Wascher)は、企業が給与支払いを記録する賃金台帳のデータを用いた分析を行い、やはりニュージャージー州の方が雇用の減少が大きかったという結果を報告した(Neumark and Wascher 2000)。それに対し、カードとクルーガーは税務手続きのための業務データを用いて検証したところ、ニュージャージー州ではやはり雇用の低下は起きていないと反論した(Card and Krueger 2000)[注1]。

[注1] その後、州境の両方に共通する要素を固定効果に用いた分析も行われたが、やはり最低賃金の引き上げは雇用に影響を及ぼさなかったことが示された(Dube, Lester and Reich 2010)。

この一連の論争は、実証分析に用いるデータや推定手法の違いが、結果を大きく左右しうるということに改めて光が当たる契機となった。特に、データの質は因果関係を明らかにするためにはきわめて重要だ。対象者全員から収集される賃金台帳のような行政記録情報では、通常の調査でしばしば生じる対象の偏りに起因する推定結果のバイアスが生じない。このような質が高いデータを適切な手法で分析することが、因果関係に迫る鍵となることを改めて強く意識づけたという意味でも、この論争のインパクトは非常に大きかった。

また、カードとクルーガーの研究は、経済理論面の深化にも貢献した。企業側が労働者に対して強い立場で賃金を決定する力を持つ「買い手独占(monopsony)」のような状況では、企業は「賃金支配力」を通じて賃金を最適な水準よりも低くとどめているかもしれない。この可能性を検証するためには労働市場における企業行動を分析する必要があるが、労働経済学の実証研究では、企業の存在は無視されることが多かった。というのも、従来は利用できるデータが国勢調査や労働力調査など家計側への調査に基づくものが中心であり、企業側のデータを用いることが難しかったからだ。労働市場が完全ならば、分析者は家計側の行動をみれば企業側の行動も知ることができる。そのため、従来はこのような仮定のもとで分析されることが多かったのである。

一方、カードとクルーガーの主張は賃金支配力に関する理論予測と整合的であり、それを受けて現実の労働市場は不完全だという前提で分析する必要があるという考察もなされた(Manning 2013)。さらに、近年ではこうした企業の独占度や賃金支配力の影響をデータで推定する動きも出てきている。労働市場で企業の集中度が上がっているなら、最低賃金を引き上げても雇用は減少しない。これに関連して、最低賃金引き上げが企業の利潤に及ぼす影響や、価格を通じた消費者への負担の転嫁など、さまざまな論点で分析が行われており、家計側と企業側の個票データをマッチさせた質の高いデータを利用した分析も行われている(たとえば、Aaronson and French〔2007〕などがある)。

さらに、これらの研究は近年の政策形成にも影響を与えている。たとえば、米国のバイデン大統領はGAFA等の巨大IT企業への規制を強める方向で2021年7月に大統領令に署名した。大統領令は、大企業による市場の独占が価格の上昇のみならず賃金の低下を引き起こしていると指摘し、反競争的な行為に対する規制を強化するとしている。ここには、まさに上記の議論が反映されており、労働市場のことを考える際にも競争法の視点が欠かせないものとなっていることの証左と言えよう。

このように、カードらの自然実験を用いた分析は、実証研究のみならず理論研究にも大きな影響を与えた。カード自身も、実証分析における経済理論の役割を非常に重視する研究者だ。理論が示唆する因果関係を検証するために行った実証結果が必ずしも既存の理論と整合的ではなかった場合には、理論を再検討し、データで改めて検証することで理論をさらに深化させる。カードは、このような研究スタイルを推し進め、経済学をより科学的に進歩させたと言えるだろう。

自然実験は何を測っているのか?

次に、アングリストとインベンスによる方法論への貢献をみていこう。第2節では、アングリストによるベトナム戦争への従軍経験が所得に及ぼす影響を分析した研究を紹介した。そこでは、「従軍者の一部をくじ引きで決める際に、くじで選ばれた人の中に従軍しなかった人がいる一方で、くじで選ばれなかったけれども自発的に従軍した人がいるという状況に対処するため、操作変数法を用いて分析した」と述べたが、アングリストとインベンスの貢献は、自然実験においてこの操作変数法が「一体何を推定しているのか?」を理論的に明確に定義したというものである。

操作変数法とは、原因(処置)の変数の変動には影響を与えるけれども、結果の変数に直接は影響を与えない「外生性」と呼ばれる性質を備えた「操作変数」を用いた推定手法である。処置変数の変動のうち、操作変数が及ぼす影響の部分を取り出し、それが結果変数に与える影響に着目することで、処置と結果の因果関係を抽出できるというアイデアだ(操作変数法や自然実験などの詳しい解説は、たとえば西山他〔2019〕を参照)。

アングリストは前出の論文で、「くじに選ばれて従軍した人々」と「自ら志願して従軍した人々」では、従軍経験が所得に与える影響が異なる可能性を指摘し、操作変数法が推定するのは、「くじに選ばれて実際に従軍した人々」という限られた範囲での平均的な因果効果であると主張した。この主張に基づけば、操作変数法は、「くじで選ばれたが従軍しなかった人々」「くじの結果によらず常に従軍する人々」「くじの結果によらず常に従軍しない人々」などもいる中で、「実際にくじの結果に従って従軍した人々における、従軍経験の所得への影響」の平均値を測っているということになる。この考え方は、人々の間で処置の効果に異質性が存在する場合にも、特定の人々の中での平均的な因果関係を見出せることを示唆していた。

このアイデアは、後にインベンスとの共同研究で一般化され、「局所平均処置効果(Local Average Treatment Effect:LATE)」という新しい概念として提示された(Imbens and Angrist 1994)。冒頭で触れた統制実験では、内生性の問題に対処できるだけでなく、政策の対象者もランダムに選ばれているので、政策効果に異質性があったとしても全員の中での平均的政策効果を知ることができる。このような統制実験のメリットが明確に認識されるようになったのは、LATEという概念が広く知られるようになったからである。またLATEは、政策の対象者がランダムに選ばれていなくても、特定の人々においては因果効果を知ることができるということも明確にした。さらに、政策効果の異質性を考えることの重要性にも改めて注目が集まるきっかけになった。

インベンスとアングリストが操作変数の特性を明らかにしたことによって、研究者は操作変数が本当に外生なのかにより注意を払うようになった。操作変数法自体は、昔から存在するもので、需要関数と供給関数の推定や、消費関数の推定などに用いられてきた。しかし以前は、操作変数が備えるべき性質に十分に配慮がなされたうえで用いられていたとは必ずしも言えなかった。特に、操作変数の外生性を注意深く検討するという姿勢は、アングリストとインベンスが自然実験と操作変数法の関係を明らかにしたことにより、実証研究を進めるうえで必須となった。

その後の実証研究へのインパクト

デザイン・ベースト・アプローチの確立

それでは、彼らの貢献はその後の実証研究にどのようなインパクトを与え、どのように変えたのだろうか。ここまで議論してきた、結果としての分析対象の行動や経済の均衡の変化とは独立に処置(政策)が与えられた自然実験をうまくみつけて、処置が結果に及ぼす影響(行動・均衡の変化)を因果効果として捉えようとする作業では、事前に緻密な「リサーチデザイン(識別戦略)」を設計することが重要だ。カード、故クルーガー、アングリスト、インベンスらの研究は、このことを改めて強調したという意味でも、大きなインパクトをもたらした。こうした分析スタイルは「デザイン・ベースト・アプローチ」と呼ばれる。彼らの研究により、結果に影響を与える処置(原因)の変動が一体どこから来ていて、どんな変動を使って因果関係を捉えようとしているのかを深く吟味する研究スタイルが確立されることになった。

仮に、ある問題意識に基づいてデータを集めて分析しようとしても、その中に外生性を満たす変数がなければ、因果関係を探ることは難しい。たとえば、肥満が健康に与える影響を推定することを考えよう。これまでは、肥満の決定要因のうち、健康に直接は影響を与えない要因を探し、それを用いて肥満の健康への因果効果を探るというアプローチをとることが考えられ、そのような要因として食品価格を考えたとしよう。すなわち、食品価格の変動が食生活を変え、そのことが肥満に影響し、ひいては健康状態に影響を与えると考えるのである。しかし、事前のリサーチデザインがしっかりしていないと、たとえば食品価格に地域的な変動があまりなかったために、そもそも集めてきたデータでは因果関係を探るのは難しかった、といった事態に直面することになる。そして、その後でいくらデータをとってきてどんな手法を使っても、説得力がある分析はできない。

因果関係を見出すためには慎重にリサーチデザインを考え、データを集めて適切な手法で分析することが要求されるのだが、第3節でも述べたように、その際に重要となるのが、データの質と量だ。先に挙げた行政記録のデータは、標本調査における偏りへの懸念を取り払ってくれるという意味で質が高い。また、個人や企業レベルの詳細な情報を捉えた個票データが、複数年にわたって観測単位ごとに追跡調査されているという点も、データの質として重要だ。加えて、たとえ生のデータでは処置変数に大きな変動があるようにみえても、操作変数によってもたらされる部分だけを取り出してみると、実は処置変数の変動は小さかったということがよくある。そのような場合でも適切に因果効果を推定するためには、十分な規模のデータが必要となる。また、十分に大きなデータでなければ、個人や企業、あるいは特定の年や地域などに固有な特徴の影響を制御したうえで正確に処置の効果を推定することもできない。さらには、リサーチデザインに沿ってデータの中で使える変数を絞り込んでいくと、実際に使えるものが実はあまり多くなかった(大半はゴミだった)といったケースにも頻繁に直面する。そのため、特に最初に集める段階では、十分大きな規模のデータを確保するのが望ましい。このように、デザイン・ベースト・アプローチが広まる中で、「どんなデータが必要か」を考えることの重要性も改めて認識されることとなった。

その後の展開と批判

労働経済学に端を発した自然実験の興隆は、教育経済学、公共経済学、開発経済学、医療経済学など、個票データを多用する隣接分野へと広がり、その後もマクロ経済学や、国際経済学、都市経済学、さらにはそれ以外のさまざまな分野へと拡大し、現在ではほぼすべての分野の実証研究者が、何を外生的な変動と考えて実証研究を行うかを明確に意識するようになった。また、自然実験的な状況をみつけるためには、社会制度や歴史的な出来事にも詳しくなければならない。そのため自然実験研究の発展と拡大は、数理的な側面が強調されながら発展してきた経済学研究の進め方に一石を投じるという意義も持つことになった。

その一方で、外生性の重要性を強調しすぎるあまり、自然実験が存在しない研究テーマを「研究不能」と頭から決め付け、仮に経済学的に重要なテーマであっても自然実験がない場合には放置されるといった傾向を生み出した面がある。反対に、「自然実験があるから」という理由で、必ずしも経済学的に重要でないテーマに研究が集中するといった面もある。自然実験が存在しないけれども政策的・経済学的に重要な問題に対しては、さまざまな手法を総動員して取り組む泥臭い研究も引き続き必要であることに変わりはない。

また、ある研究対象でみられた因果効果がそれ以外の対象にも一般化できるのかという「外的妥当性」への疑問も指摘される。自然実験で測れるのは局所的な因果効果であり、別の対象・場面でも同じ効果がみられるとは限らない。ただし、このことは自然実験のみならず、広く指摘されてきた問題だ。こうした問題はあるものの、自然実験を通じて、ある限られた範囲で正確に因果効果が抽出できることを示し、それをさまざまな社会問題に応用してきた受賞者たちの貢献は非常に大きい。

政策現場での活用と課題

現在では、ビジネスや政策の現場にも、施策の効果を検証するための因果推論の考え方が広まってきている。最後に筆者の経験もふまえて、特に政策と研究の連携の進展と、それをさらに推し進めていく際の課題を整理したい。

日本において、EBPM(実証結果に基づく政策形成)に注目が集まるようになって、4年ほどが経過した。現在は筆者がセンター長を務める東京大学政策評価研究教育センター(CREPE)も、EBPM推進への貢献を目的の1つとして2017年10月に設立された。その間、行政等との共同事業・研究を行う中で、EBPMの考え方は着実に浸透してきていると感じる。

しかし、この動きが政策決定に直接活かされるかというと、話はそれほど単純ではない。たとえば、「最低賃金を引き上げると雇用が失われる」という分析結果が出たとしても、「最低賃金を引き上げない」という決定には結びつかない。最低賃金の決定には政治的な要素も強く影響し、「各都道府県の人口規模に対する加重平均で1000円以上を達成する」という目標に反対する主要政党は存在しない。そのため、最低賃金の引き上げは既定路線だとも言える。ただしこのような状況においてもその政策目標を達成するためにどの都道府県の最低賃金をどの程度上げるか、詳細部分を検討する余地がある。このとき、雇用等への因果効果が地域の労働市場の状況によってどのように変わるかがわかれば、どの都道府県の最低賃金を引き上げて全国平均で1000円を目指すべきかについて指針を与えることができる。

また、EBPMへの取り組みが進む中で、厳密に因果関係を探ろうとすればするほど、経済学を専門としない人々にとっては何をやっているのか伝わりにくくなってしまうという問題も顕在化してきた。自然実験に基づく因果関係の分析手法が確立したことで、経済学の実証研究は科学としての精緻さを増し、政策的に重要な貢献ができる可能性が上がった一方で、複雑でわかりにくい分析や解釈の難しい結果が示されるようになり、(専門的なトレーニングを受けていない)政策担当者や一般の人々からの距離は遠くなってしまったという側面も無視できない。

ここで重要となるのが、科学的に正当化される分析を研究者が行う一方で、その科学的知見を一般の人々にわかりやすく正確に伝え、専門家と非専門家の間を橋渡しできる人材ではないだろうか。たとえば、経済学の博士号取得者など、専門的なトレーニングを受けた人材を政策現場等の内部に配置し、外部の専門家との橋渡しを担ってもらうといったことが考えられる。また、事業や政策を担う機関が、膨大な研究成果を整理し、統合的に評価して政策担当者や意思決定者に伝えるようなセクションを設置するのも効果的だろう。そこでも、やはり専門知識を備えた人材が活躍できる。実際、海外の政府や行政機関や民間シンクタンクには博士号を持ったエコノミストが配置され、そうした役割を担っている。日本でもそういう動きが徐々にみられるようなっているが、多くのポストは期限付きで、その後の転職先も大学などの研究機関に限られている。もう一歩進んで博士号を持つものをキャリア採用すれば、優秀な学生を惹き付け、専門知識を政策評価や政策形成に活かせる土台が整ってくると考えられる。また、このようにすることで行政機関とコンサルティング会社を含む民間企業の間を行き来するようなキャリア形成もできるようになるだろう。

また、EBPMの推進には利用可能なデータの整備も非常に重要だ。本稿でも述べたように、実証研究を行ううえでデータの質は特に重視される。その中でいま最も注目されているのが行政記録情報である。カード自身も、ヨーロッパの行政記録情報を用いた研究を現在精力的に進めている。行政記録は個人の所得等を捕捉したものであるため、その取り扱いには十分な注意が必要であるが、プライバシーを保護しながら行政記録情報や政府統計の個票を学術利用することは、政策改善につながるのみならず、経済学ひいては広く社会科学の進歩に貢献するための必要条件だ。日本でも国税庁の税務データや財務省の輸出入申告データの学術利用が進められている。また、東京大学政策評価研究教育センターでも地方自治体の税務データを学術的に分析し、現場にフィードバックするという試みを始めている。今後も日本が先進国の一員として国際的な学術発展に貢献するにあたり、行政記録情報や政府統計の個票などといったデータの学術利用のさらなる促進は、その基盤となるだろう。

付記:本稿は、本稿は『経済セミナー』2021年12月・2022年1月号に掲載された「ノーベル経済学賞2021 社会問題の因果関係を解明する『自然実験』の確立」を改訂したものである。

参考文献

西山慶彦・新谷元嗣・川口大司・奥井亮(2019)『計量経済学』有斐閣。

Aaronson, D. and French, E. (2007) "Product Market Evidence on the Employment Effects of the Minimum Wage," Journal of Labor Economics, 25 (1): 167–200.

Angrist, J. D. (1990) "Lifetime Earnings and the Vietnam Era Draft Lottery: Evidence from Social Security Administrative Records," American Economic Review, 80(3): 313–336.

Borjas, G. J. (2003) "The Labor Demand Curve is Downward Sloping: Reexamining the Impact of Immigration on the Labor Market," Quarterly Journal of Economics, 118(4): 1335–1374.

Card, D. (1990) "The Impact of the Mariel Boatlift on the Miami Labor Market," Industrial and Labor Relations Review, 43(2): 245–257.

Card, D. and Krueger, A. B. (1994) "Minimum Wages and Employment: A Case Study of the Fast-Food Industry in New Jersey and Pennsylvania," American Economic Review, 84(4): 772–793.

Card, D. and Krueger, A. B. (2000) "Minimum Wages and Employment: A Case Study of the Fast-Food Industry in New Jersey and Pennsylvania: Reply," American Economic Review, 90(5): 1397–1420.

Dube, A., Lester, T. W. and Reich, M. (2010) "Minimum Wage Effects Across State Borders: Estimates Using Contiguous Counties," Review of Economics and Statistics, 92(4): 945–964.

Imbens, G. W. and Angrist, J. D. (1994) "Identification and Estimation of Local Average Treatment Effects," Econometrica, 62(2): 467–475.

Lewis, E. G. (2011) "Immigration, Skill Mix, and Capital Skill Complementarity," Quarterly Journal of Economics, 126(2): 1029–1069.

Manning, A. (2013) Monopsony in Motion: Imperfect Competition in Labor Markets, Princeton University Press.

Neumark, D. and Wascher, W. (2000) "Minimum Wages and Employment: A Case Study of the Fast-Food Industry in New Jersey and Pennsylvania: Comment," American Economic Review, 90(5): 1362–1396.

Peri, G. and Sparber, C. (2009) "Task Specialization, Immigration, and Wages," American Economic Journal: Applied Economics, 1(3): 135–169.

編集担当:尾崎大輔(日本評論社)