東京大学政策評価研究教育センター

論文プレビュー:福島第一原発事故による避難指定区域外の「見えざる被害」に迫る

論文:Daiji Kawaguchi and Norifumi Yukutake, "Estimating the Residential Land Damage of the Fukushima Nuclear Accident,” Journal of Urban Economics, 99: 148-160, 2017.
著者:川口大司(東京大学)・行武憲史(日本大学)


画像提供:多瑠都 / PIXTA(ピクスタ)

目 次
イントロダクション
データ:実際の土地取引価格データと放射能汚染被害データを合併
データの偏りが分析もたらす歪みを乗り越える工夫:正確な被害額推定のために
主な発見事実:人口密度の高い地域の被害が甚大
エネルギー政策議論のためにも、「見えざる被害」の把握が重要

イントロダクション

今後の原発政策の是非を議論するうえでも、2011年の福島第一原子力発電所の事故による被害をより包括的かつ正確に把握することはきわめて重要である。世界中を見渡しても、原発事故自体がレアなケースであり、その被害額や事故後の処理にかかる費用を推定した実証研究などは非常に限られているのが現状である。また、福島第一原発事故を見ても、避難指定や賠償の対象となるより直接的な被害を受けた地域については政府や東京電力などが試算を行い、それに基づいた対応がなされているものの、その対象とならない周辺地域については、真の被害の全体像は必ずしも明らかにされていない。その一方、実際には特に北関東や千葉県などで、野菜や土地の需要が低下し、価格も下落するなど、事故がもたらした実質的な被害は決して小さくはないのではないかとも考えられる。

こうした問題意識のもとで避難指定区域外の被害額の推計に挑んだ研究が、本論文(Kawaguchi and Yukutake 2017)である。本論文は、とくに福島第一原発事故が避難指定区域以外の地域に与えた影響に着目して被害額の推計を行った。この点では、すでに示されている原発事故の費用額や被害額の試算結果を補完するものとして位置づけることができる。なかでも、住宅用の土地(宅地)を対象とし、原発事故による汚染の影響を受けて土地の取引価格がどの程度下落したかを推計することを通じて、被害額を試算した。その推計によれば、日本全体でおおよそ1.5~3兆円程度、原発事故の後に地価が下落したことが示されている。経済産業省の「東京電力改革・1F問題委員会」による試算では、原発事故の処理費用が当初は11兆円、後に22兆円と見積られていた。これらの金額と、本論文の推計結果に基づく被害額を比べると、前者に対しては14~27%、後者に対しても7~14%の規模となる。本推計の分析が宅地に限定されたものであることも踏まえると、避難指定区域外おける被害額も決して小さくはないことがわかる。このこと点からも、より広い範囲で包括的に事故の被害額を明らかにすることは、望ましい補償や今後の対策を考えるうえでも重要であろう。

データ:実際の土地取引価格データと放射能汚染被害データを合併

原子力発電の事故自体は、これまでを振り返っても非常にレアなケースであり、実証的に被害額を分析した研究は決して多くはない。諸外国を見渡してみても、現時点では具体的な事故を分析した研究をみつけるのは難しく、チェルノブイリ原発事故に対する実証的に事故が土地価格等に及ぼした影響を分析した研究は見当たらず、アメリカのスリーマイル原発事故を対象とした分析がわずかに存在する程度である。その一方で日本では、福島第一原発の事故を対象に、事故後の土地価格(地価)の下落によって被害額を評価する研究が行われているものの、いずれも「公示地価」のデータを用いた分析である。公示地価は、実際の取引価格だけでなく不動産鑑定士による評価も反映される。しかし、原発事故の影響を踏まえた土地取引の前例は過去にほとんど存在しないため、鑑定士がどのようなプロセスで価格を評価したかは必ずしも明らかではなく、実際の土地への需要や取引動向を正確に反映したものではない可能性も指摘されている。

そこで本論文では、実際の取引価格のデータを用いることで、公示地価を用いる場合の問題を克服している。ただし、実際の取引価格のデータを用いる場合には別の問題に直面する可能性がある。それは、事故による被害が甚大な地域では取引自体が行われなくなってしまい、本当は土地の価値が大きく下落しているにもかかわらず、そのことがデータに反映されない、という問題である。これに対して、本論文では被害額の想定に幅を持たせて推計し、最悪なケースを被害の上限として設定するという工夫を加えることで、事故の影響で失われた取引がデータから欠落することで被害の評価が過少になってしまう問題を克服し、実際の取引価格を用いた被害額の試算を行った。

本論文で用いた実際の土地の取引価格については国土交通省「土地総合情報システム」を、土地の汚染被害の情報は文部科学省「航空機モニタリングによる空間線量率の測定結果」を用いている。そして、緯度経度情報に応じてわかるセシウム137とセシウム134の濃度を各地域の取引ごとに割り振っていき、両者のデータを町丁目レベル(町、字)で統合した。データは四半期ごとであり、期間はそれぞれ2010年第2四半期から2012年第1四半期まで(除く2011年第1四半期)である。また、東北・関東甲信越の16都道府県(岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)を対象としている。このように、町丁目レベルで約1万6000件、7期の期間のパネルデータを分析のためのデータセットとして構築した。利用可能なデータの規模は約8万件である。

データの偏りが分析もたらす歪みを乗り越える工夫:正確な被害額推定のために

上記のデータを用いて被害額の推定を行う際に、本論文では特に次の2点の問題に対処するための工夫を凝らしている。1つは、原発の周辺地域は事故が生じる以前からそもそも地価が相対的に低いことが考えられるため、その問題を考慮して被害額を試算する必要があるという点である。2つめは、先にも指摘した通り、実際の取引データを用いることで、事故によって取引が行われなくなることで、それらの影響をデータが捕捉できなくなってしまうという問題にも対処する必要があるという点である。

1つめの問題に対しては、原発事故が起こる前の時点の地価と起こった後の時点の地価を比較し、その下落幅を被害額として評価するという工夫をすることで対応している。これは、パネルデータが構築できたために可能となった対処法である。これにより、事故前の元々の地価を踏まえて、事故による汚染がどの程度地価を引き下げたかという形でインパクトを評価することができるのである。

2つめは、先ほども触れた、より甚大な汚染被害を受けた土地において、事故の影響で取引が失われてしまうことが引き起こす問題へ対応だ。このようにしてデータから欠落してしまった土地は、単に地価が下がるというだけでなく取引がストップしてしまうわけで、それだけ甚大な被害を受けた土地である可能性が高い。そうなると、より深刻な被害を受けた土地であるほどデータから落ちてしまうことになる。そして、このようなデータで被害額を推計すると、実際の被害額を過少に見積ってしまうことなる。甚大な被害の影響で取引が失われることが多く想定される今回のような場合には、このことが及ぼす影響は無視しえないほど大きい。こうした問題の原因を「サンプル・セレクション・バイアス」というが、本論文では、これが引き起こす問題に対処するために、あえて事故前の平均的な取引価格を過大に見積って事故後の地価と比較し、最悪のケースの下落幅を推定するという工夫を行った。そして、通常のデータを用いて推定した下落幅を被害額の下限とし、事前の平均地価を過大に見積ったデータで推定した被害額を上限として、被害額に幅を持たせて推定することで、サンプル・セレクション・バイアスが引き起こす被害額の過少評価の問題に対応したのである。

やや複雑になるが、上記の工夫の具体的な手順としては次の通りである。たとえば、重度に汚染された土地で取引量が5%減少したとする。その場合に、事故前の期間の取引データの地価の分布の下位5%を切り取ったデータを作成し、分析に用いるのである。これにより、事故前のデータにおける平均的な地価は、下位5%を切り取る前のデータに比べて高くなる。さらにこのデータを用いて地価の下落幅を推定すると、切り取る前の通常のデータと比べて、地価の下落幅(つまり被害額)も拡大したようにみえる。本論文では、これを最悪のシナリオであると想定し、被害額の上限と考えて推定を行った。これにより推定された、汚染の影響で地価を下落させたことを示す値(係数)は、下位5%を切り取らない通常のデータによる推定値と比べて、倍以上に大きくなったことが示された(-0.021から-0.053に拡大)。このような方法で、ある意味極端な想定を置いて被害の上限を推定することで、サンプル・セレクション・バイアスが引き起こす過少評価の問題に対応したのである。これを踏まえて、本論文では被害の下限と上限を示している。

主な発見事実:人口密度の高い地域ほど地価の下落幅が大きい

上記2つの工夫を盛り込んだ分析により、原発事故による放射能汚染は、確かに地価の下落という形で被害を及ぼしていることが明らかになった。さら本論文では、分析結果の頑健性を示すために多くの追加的な分析を行っている(詳細は、Kawaguchi and Yukutake (2017) を参照)。たとえば、人口密度を考慮した分析である。これによると、人口密度が高い地域における地価の下落幅が特に大きいことが明らかされた。これは、人口密度が高い地域は元々の地価が高く失うものが大きいため、汚染による被害額も大きく推定されたと解釈できる。後に見るように、特に千葉県の推定被害額が大きいのは、この点を反映しているためであろう。また、各土地の原発からの距離を考慮した分析も行っている。ここでは、「汚染度合いを一定とすると、距離が近い方が地価の下落幅が小さい」という結果が示されている。原発からの距離をコントロールすることで距離が一定であるとの想定のもので、より汚染された地価の下落幅がより大きく推定されたことも示されている。この結果は、より重度に汚染された土地の多くが原発の近くに立地しているために、原発近くの相対的に汚染されていない土地が希少になり、それらの土地への需要が高まったこと結果、地価の下落が限定的であったと解釈できる。本論文の筆者である川口氏と行武氏は、元々原発の近くに住んでいた人々のなかで、事故後もなるべく地元に住み続けたいと考える人々が、できるだけ地元の近くで汚染されていない地域を選んだ結果、それらの土地が希少になり、地価の下落幅も限定的となったのではないかと分析している。 さらに本論文では、以上の結果を受けて、市町村ごとに実際にどの程度汚染されたかを測定し、その汚染に元々の地価、事故を受けた地価の下落率、市町村ごとの宅地の面積を掛け合わせることで、市町村ごとの被害額を試算し、都道府県ごとの被害額と日本全体での被害額の推計値を示している。それによると、日本全体の宅地が受けた被害額は約1.5(下限)~3兆円(上限)であった。2012年の日本全体での土地の資産価値は「国民経済計算」では約1148兆円と評価されていることから、日本全体で見て土地の価値を約0.13~0.25%下落させたとみなすことができる。以下の表1では、上限の被害額を都道府県ごとにまとめている。

表1 都道府県ごとの推定被害額(宅地)


エネルギー政策議論のためにも、「見えざる被害」の把握が重要

以上の主要な結果を受けて、都道府県ごとの推定被害額と地価の減少率をさらに詳しく見てみよう。まず被害額を見ると、千葉県が最も大きく9300億円、次いで福島県、茨城県の順となっている(図1では事故前の地価が高い順に、都道府県ごとに推定被害額を棒グラフで示している)。分析対象の16都道府県の中でも原発から最も近い福島県が大きな被害額を示しているのは想像に難くない。実際、地価の減少率で見ると福島県が7.11%と突出して高い値を示している。一方で、相対的には距離が遠く直接的な被害も限定的であった千葉県が最も高い被害額を示しているのは、やや意外な結果であるかもしれない。しかし、千葉県の場合は人口密度が高く、元々の地価も高い地域が多いため、減少率は相対的に低くても、実際に下落した金額に着目すると大きな値となるのである。

図1 土地の総価値と推定被害額


さらに重要なのは、千葉県の人々は、避難指定区域外とはいえこのように大きな影響を受けたにもかかわらず、賠償の対象となっていないということである。光の当たることが少ない避難指定や賠償の対象とならない地域においても大きな被害が生じている可能性に目を向け、金額までを具体的に提示している点でも、本論文の分析の意義は大きい。

本論文では、日本全体で見た避難指定区域外の被害総額も推定したが、当初の政府の原発事故の処理に係る費用額の見積りが2014年の段階で11兆円、2016年末の新しい見積りで22兆円であったことを踏まえると、これに対して、本論文で示した宅地に限定した避難指定区域外の被害額で1.5~3兆円という規模は、決して小さくはない。もちろん、宅地以外にも農地に与える影響や産業に及ぼす影響等々、考慮すべき要因は多岐にわたるため、本論文で示された限定的な被害額であってもこの規模という結果は、避難指定区域外への影響も決して無視してはならないということを強く示唆しているといえよう。

原発事故による放射能汚染の程度はそのときの風向き等、自然要因も大きく影響するので、ケースバイケースで結果が大きく変わる可能性が高い。そのため、今回の分析結果から、単純に次の原発事故が生じた場合の被害額を予測することは難しいが、そもそも極めてレアなケースである原発事故の被害額について、福島第一原発事故に関する被害総額を明らかにしたという点で貴重な結果である。今後の原発政策の意思決定を行ううえでも、本論文の分析結果やそれを導くために工夫された分析手法は、重要な検討材料の1つとなりうるものといえよう。

「背景: 原発事故の被害額の試算をめぐる困難」へ

CREPEフロンティアレポートシリーズはCREPE編集部が論文の著者へのインタビューをもとにまとめたものです。