東京大学政策評価研究教育センター

背景:「災害の経験」の影響をデータで読み解く



画像提供:にこまる / PIXTA(ピクスタ)

ショックを契機に考え方が変わる?

2011年3月11日に日本を襲った東日本大震災。大地震、津波、原発事故が併発し、岩手、宮城、福島の3県を中心にきわめて多くの人々が被害・影響を受けた。大規模な揺れは震央から遠く離れた首都圏にも届き、その影響は広域に及んだ。さらに、連日報道される津波被害の様子や刻々と変化する原発事故の状況、交通機関の乱れや計画停電、物資の不足等々に直面し、非常に多くの人々が不安を感じながらの生活を余儀なくされた。震災後も、被害の全貌が明らかになるにつれて多くの報道が続き、悲惨な津波の跡や人的被害も明らかになっていった。

東日本大震災の被災地を中心に、その後の人々の心理的側面への影響の可能性を想起させる事案も報じられた。たとえば、宮城県で震災後にアルコール依存症になる人が増加したといった例や(東北会病院ウェブサイト)、被災地でパチンコ店が繁盛したなどといった報道もなされた(J-CASTウェブサイト)。もちろん、これらの変化は、必ずしも震災を経験したために生じたと言うことはできないが、大きな自然災害の被害に直面した結果、リスクを伴う不確実な状況に対する評価や、将来に向けた備えなどについての考え方が変わったのではないかとも考えられる。

経済学では上記のような、不確実な状況をいかに評価して行動に移すか、将来のことをどの程度考慮して現在の行動を決めるか、他者のことをどの程度気にかけたり信頼したりするかなど、人々の意思決定の基礎となる個人の好みや性向(選好と呼ばれる)に関する研究が進んでいる。伝統的な経済理論では、個人の行動は価格や所得の変化等によって規定され、その根底にある選好は変化しないという前提が置かれてきた(Stigler, G. J. and G. S. Becker "De Gustibus Non Est Disputandum," American Economic Review, 67(2):76-90, 1997.)。

しかし最近の研究では、大地震、津波、洪水といったさまざまな自然災害や紛争被害、または金融危機などに直面したことで人々の選好が変化したという結果が示されており、これらは実証的な課題として位置づけられている。ただし、「どんな人が」「どのような形で」「どのように」などの、偶然直面する災害等が人々の選好をどのように変えるかについての統一的な見解は、いまだ得られていない(Schildberg-Hörisch, H. "Are Risk Preferences Stable?," Journal of Economic Perspectives, 32(2): 135-154, 2018.)

「CREPEFR-9の論文プレビュー」で紹介する論文、Hanaoka, Shigeoka and Watanabe (2018) は上記の問題に対して、全国規模のアンケート調査から構築した「パネルデータ」を活用して挑んだ研究である。同論文では、東日本大震災が発生する直前と1年後、および5年後の調査データを用いて、不確実でリスクのある選択に対する人々の評価(「リスク選好」と呼ばれる)がどのように変化したかを厳密に検証した。

個人を追跡調査した「パネルデータ」を使え!

ここで、論文の内容紹介へ移る前に、同論文で用いられたパネルデータについて説明しておこう。パネルデータとは、ある対象ごとに複数年にわたって追跡調査したデータである。個人、製品、企業、自治体や国など、さまざまなレベルのデータが存在するが、特に経済学では「個票データ」と呼ばれる個人や製品、企業単位のデータが注目されている。ある事象が個人に与える影響を、元々各個人に備わっていて時間を経ても変化しない属性や特徴が及ぼす影響を取り除いて、正確に調べることができるためである(パネルデータを用いた分析の入門的な解説は、田中隆一『計量経済学の第一歩:実証分析のススメ』〔有斐閣、2015年〕等を参照)。

パネルデータは豊富な情報を含んだ重要な研究材料であるが、難点もある。それは、長く継続して収集し続けるには非常に大きなコストが掛かるという点である。そのため、全国規模でパネル調査を実施し続けるのは容易ではなく、ましてや都合よく、ある大規模なショックを挟んで人々のリスク態度等の選好を調査したものはなかなか存在しない。実際、リスク選好の変化に関連する先行研究でも、きっかけとなるショックの前後を含めて調査が続いているパネルデータを活用できた例はめずらしく、ショック後のある時点のデータに基づいた分析や、実験データを用いた分析がなされた研究が多かった。

しかし日本には、大阪大学社会経済研究所が長年にわたって実施してきたパネル調査である「くらしの好みと満足度についてアンケート」が存在する。この調査は、2003年から2013年の1~2月に毎年実施された調査で、当初の調査対象者数は2000人(有効回答数1418人)でスタートし、その後数千人規模の調査が続けられた(2004、06、09年に対象者が新規抽出により加えられた)。同調査は、満20~69歳の男女個人を対象とした標本調査であり、その結果が日本全体を代表する形になるように慎重に設計されている。実際の調査は、事前に依頼状と調査票を対象者に郵送し、後日調査員が訪問して調査票を回収するという形で行われている。対象者は各年で個人が追跡できるようにIDが振られており(個人を特定できないように匿名処理がなされている)、これによって、複数年にわたる個人の動向を分析することができる。このような大規模なパネル調査は、当然ながら非常に大きなコストが掛かるうえに、次第に調査対象者も脱落していってしまうなどの問題もあり(毎年数十ページにわたるアンケートに答え続けるのは、調査対象者にとってもなかなか面倒な作業だろう)、長期にわたって継続することが困難である。それでも同調査は、2003~13年まで11年にわたって続けられ、2016年にも予算削減の必要からもとの80%の規模であるが再度実施された。

さらにこの大阪大学の調査の最大の特徴は、個人・世帯の基本属性や家計・消費等に関する基本的項目に加えて、リスク回避度や将来・現在の優先度(時間選好率)など、個人の選好を調査する質問項目まで含まれていた点である。これは、大阪大学社会経済研究所が行動経済学研究の大きな拠点であり、行動経済学の主要テーマの1つである個人の選好に関する実証的な研究を深めるための大規模なプロジェクトに早くから取り組んでいたことが幸いした。

「CREPEFR-9の論文プレビュー」で紹介する研究が始まったきっかけの1つは、著者の1人である花岡智恵氏が、2013年に開催された第2回「応用経済学サマー・ワークショップ」(2012年から毎年夏に京都で開催される、国内外で活躍する気鋭の若手経済学者が集い先端的な研究を報告し合うカンファレンス)で、この大阪大学のパネルデータを紹介する特別セッションに登壇したことだった。

本論文の共著者である重岡仁氏と渡辺安虎氏は、ちょうどこのセッションで花岡氏の報告を聴講しており、ここで紹介されたパネル調査は世界的にも稀有な特徴を秘めたデータであり、有益な研究に結びつく可能性を感じたという。しかも、東日本大震災が起こった2011年3月の前後も含んで調査が継続されていることに加え、個人のリスク回避度などが緻密に調査されていることにも着目した。このデータを使えば、人々の選好が大きなショックを経験することでどう変化するか、またその変化はどの程度維持されるのかを検証できるのではないか。

花岡氏が、調査を行っていた大阪大学社会経済研究所に勤務し、実際に調査設計やデータの整理に関わっていた経験もあり、この調査データについて熟知していたことも、本研究の実現を後押しした。このワークショップの後、3人はすぐに研究開始に向けたミーティングを行い、後にその成果が2018年にはアメリカ経済学会が発行するトップジャーナルであるAmerican Economic Journal: Applied Economicsに発表されるに至る。

それでは、彼・彼女らは実際にどのような工夫を凝らして研究を進め、どういった結論にたどり着いたのか。その点はぜひ、「CREPEFR-9の論文プレビュー」、および論文Hanaoka, Shigeoka and Watanabe (2018) を参照してほしい。

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CREPEフロンティアレポートシリーズはCREPE編集部が論文の著者へのインタビューをもとにまとめたものです。