東京大学政策評価研究教育センター

論文プレビュー:ライフサイクルを通した医療費の定量的評価

論文:"Quantifying Health Shocks over the Life Cycle", CREPEDP-2, 2018.
著者:深井太洋(東京大学)・市村英彦(東京大学)・金澤匡剛(東京大学)


画像提供:8x10 / PIXTA(ピクスタ)

目 次
イントロダクション
医療費支払いを複数年追跡したデータが分析の鍵
データ:個人を追跡した大規模データベースを利用
主な発見事実:いつ、どのようなときに高額医療費支払いが必要になるのか?
データの蓄積と分析可能な環境の整備が決定的に重要

イントロダクション

私たちは、年齢や性別にかかわらず様々な健康リスクに直面している。ある日突然、ケガや病気によって高額な医療費を支払わなければならなくなってしまうかもしれないし、年齢を重ねていけば病気になるリスクも高まる。また、自身の生活は必ずしも自分の健康状態だけではなく、子どもや親など、家族の病気や介護に直面した場合にも大きな影響を受ける。そんな中、もしデータに基づいて、「人は何歳のときに、どの程度の医療費が必要となる健康リスク直面するのか、またそれはどの程度の期間続くのか」などを予測することができるとしたら、多くの人々にとって役に立つ情報を提供できるのではないだろうか。

自分や家族の将来のリスクが予測できれば、「今どれくらい貯蓄をしなければならないのか、病気になったときに医療費を支払いながらどの程度の生活を維持できるのか」など、将来の不安に対してより効率的に備えることができる。また、民間の保険会社が保険商品の内容や価格を決定する際にも、加入者の将来の健康リスクが予測できれば、有益な情報となる。さらに、社会保障制度を運営する政府も、国民の健康リスクに関する予測情報を得ることができれば、将来に備えて制度改革を進めていくための重要な判断材料として使うことができる。

今後、日本ではさらに急速に高齢化が進んでいくことが確実視されている。その中で、これまで以上に多くの人々がより高額な医療費の支払いを必要とするようになるかもしれない。本論文の問題意識は、こうした時代に、人々が生まれてから亡くなるまで、いつ、どの程度の医療費が必要となるかを正確に予測するための方法と、そこから得られる実践的な示唆を提供する点にある。様々な困難に直面する日本の医療制度を考えるうえで極めて重要であり、個人、保険会社、政府など多様な人々に向けて重要な示唆を与える研究だ。

医療費支払いを複数年追跡したデータが分析の鍵

人々のライフサイクルの中で、健康状態や医療ニーズ、医療費の支払いがどのように変化していくかを予測するための研究は、これまでも医学や公衆衛生学はもちろん、経済学においても数多く蓄積されてきた。既存の研究では、ある人の前年の医療費支払い、または前年の主観的な健康状態をもとに、次の年の状態を予測するという手法が主流となってきた。

しかし、「前年の医療費支払いが高い人」という括りで見ているだけでは、その中に存在する「以前からずっと高い医療費を支払い続けている人」と、「前年に初めて病気になり高い医療費が掛かった人」を区別することができない。一方で、こうした2人は、その後必要とされる医療費が、大きく異なるのではないかとも考えられる。ところが、これまで主流だった前年の情報に基づいて次の年の状況を予測する方法では、このような2人を区別することができない。これでは、以前から継続的に高い医療費を必要としている人と、ある年に初めて健康を害して高い医療費が必要となった人とを区別することができない。一方で、このような2人が区別できれば、予測精度を高めるだけでなく、いつ健康を害して高額な医療費が必要となるリスクが高まるかを予測することもできるようになるだろう。

本論文では従来の手法を改良し、前年に加えてその前の年の同じ個人の情報も用いて、次の年の医療費支払いの程度を予測するための分析方法が提案されている。この方法に基づき上記の2タイプの人を区別することで、より正確な予測を行うことができるのである。

しかしこの分析を行うためには、同一の個人を複数年にわたって追跡できるデータが必要であり、しかも個人の社会・経済的な特徴を捉えた情報を豊富に含んだものでなくてはならない。こうした性質を備えたデータはなかなか存在しないのが実情であり、実際に分析を行う際の障害となりうる。しかし本論文では、医療機関が健康保険組合等の保険者に医療費を請求するために作成する医療行為の明細をまとめた診療報酬明細書(レセプト)のデータを複数年にわたって用いることで、一定の限界はあるものの、そのような分析を行うことに成功した。

データ:個人を追跡した大規模データベースを利用

本論文では、日本医療データセンターが運営する「JMDC Claims Database」から得た、2005〜2015年度における健康保険組合に加入する0〜59歳男性のデータが用いられている。「JMDC Claims Database」は、累積で約300万人もの、保険者から寄せられた加入者台帳、医療レセプト、健診のデータが記録された、大規模なデータベースである。このデータは、加入者ごとに個人のID番号が付与されていて、転院や複数施設受診があっても追跡が可能となっている。また医療費支払い額以外に、加入者の性別、年齢、所得、学歴など、個人の特徴を示すデータが含まれている点も、精度の高い分析を行うためには極めて重要だ。本論文で構築したデータセットでは、3年以上にわたって個人の医療費を追跡することができる。また、医療業務の過程で収集されるレセプトデータは、例えばしばしば用いられるアンケート調査などのように自己申告で事後的に集められるデータよりも、はるかに正確な情報を記録している。このデータを用いることで、ある年に高い医療費を支払った人が、以前から継続的に高い医療費を支払い続けている人なのか、その年になって急に高い医療費を支払った人なのかを明確に区別した分析が可能となるのである。

このデータを用いて、本論文では、記録された各人の医療費支払い額の大きさを各人の健康状態とみなし、急に医療費支払い額が大きくなった場合に、何らかの「健康ショック」を受けたと捉えた。また、各人の健康状態が時間を経てどのような変遷をたどっていくかを予測するため、個人の年間医療費の支払い額の大きさに従って応じて5つに区分けし、そして、各人が年齢ごとにどの程度の健康ショックに見舞われか、そして、悪化した健康状態はその後どの程度継続するかを分析した。

主な発見事実:いつ、どのようなときに高額医療費支払いが必要になるのか?

ここでは、分析によって明らかになった点を、主に4つに分けて紹介しよう。まず第1に、前年だけでなくその前の年も予測に用いることで、予測の精度を向上させることができることが明らかとなった。より正確な予測が可能となったことのキーポイントは、この方法に基づき、その年に初めて高額の医療費を支払った人と、以前から継続的に高い医療費を支払い続けている人とを区別できた点である。これにより、従来の手法では正確に分析できなかった以下の3点を明らかにすることができた。

第2に、何歳のときに高額な医療費が必要となる確率が高いかを示すことができた。初めて高額な医療費を支払うことになる確率は生まれたときは高く、その後10歳までは下がり続け、その後25歳くらいまでは大きく変わらない。それ以降は年齢とともに上昇し、40歳を過ぎてからさらに上昇傾向は強まることが実証的にも明らかとなった(図1)。年齢階層別の年間の1人当たり医療費の分布は厚生労働省も報告しているが(「医療保険に関する基礎資料」〔各年度版〕)、それとも整合的な結果を示唆している。

図1 高額な医療費が必要となる確率:年齢ごとの分布

第3に、特に高額な医療費が必要な健康ショックに見舞われる確率が、年齢とともに上昇していくことがわかった。一方で、必要となる医療費がそれほど高額でない場合には、支払いが発生する確率は、年齢によってそれほど変わらないこともわかった。

最後に、初めて高額の医療費を支払うことになった場合、翌年以降も支払いが続く確率が年齢ごとにどのように変わるかも明らかになった。具体的には、生まれてから幼少期にかけては高額な医療費が継続して掛かる確率は高いが、10歳くらいにかけて低下し、その後30歳前後まではあまり変わらない。しかし、35歳を過ぎたくらいから、一度高額な医療費を支払った人は、その支払いが継続する確率が高くなることがわかった。

本論文は、個人を複数年にわたって追跡可能で大規模な医療レセプトデータを用いることで、これまでの分析をさらに発展させることができた。ここで提示された推定手法を応用することで、その人の年齢等の特徴や、過去の健康状態をもとに、将来どの程度の医療費が必要となるかをより予測することができるだろう。こうした情報は、個人が貯蓄や医療保険などの備えを考える際だけでなく、保険会社や政府の政策担当者にとっても有益な示唆を与えるものとなりうる。

データの蓄積と分析可能な環境の整備の重要性

本論文で提案されたモデルは、自分や家族が「何歳くらいのときに、どの程度の医療費が必要となり、それはどの程度の期間続くことになるか」を予測するという切り口で健康リスクを評価することで、それに備えるための有益な情報を提供できる可能性を示した。

こうした情報は、多様な人々が役立てられる可能性がある。個人は、将来の生活設計を考える際にその予測を参考にできるし、民間の医療保険も、顧客が持つリスクの評価、保険商品開発や価格設定に役立てることができるだろう。さらに政府も、各人の医療ニーズや健康リスクを適切に予測できれば、社会保障制度についての議論の際に、より実態に即した検討材料として活用できるかもしれない。

今後、本論文で用いたデータ以上に豊富な情報を含むデータが利用可能となれば、本論文で提示した分析手法を応用して、それをもとに、より個人の特徴を正確に捉えて医療費が必要となる状況を予測することができるようになるだろう。

また「背景:高齢化社会と医療費ー将来のリスクに備えるために何が必要か?」でも触れられているように、高齢化が進んでいく日本では、医療に加え、介護に係る費用の分析も重要性となるだろう。医療と介護、両方のリスクに直面する高齢者がより多くなっていく中で、両者を包括的に捉えて分析する必要性は一層高まる。たとえば、高齢者の中では、長期入院の後に退院すると、医療費支払いはいったん低下するものの、介護の費用が高額になるケースはめずらしくない。こうした場合に、医療費を個別に分析しているだけでは、個人の支払い状況や健康リスクを包括的に評価することはできない。施設での介護の場合は比較的高額な費用がかかるかもしれないし、在宅での介護は、家族の生活にも影響を及ぼす可能性がある。その一方で、日本では、全国規模で医療のレセプトデータと介護のレセプトデータを個人レベルで連結することができない状態が続いている。このことは、医療と介護の包括的な分析を目指す場合に大きな障害となってしまう。今後、医療・介護は財政的にも厳しい運営が予想され、また人口減少によりサービス提供側の資源も限られてくる。それほど遠くない将来の課題に対してエビデンスに基づく議論を深めるためにも、データベース基盤の整備と利用可能性の進展は極めて重要である。

「背景: 高齢化社会と医療費ー将来のリスクに備えるために何が必要か?」へ

CREPEフロンティアレポートシリーズはCREPE編集部が論文の著者へのインタビューをもとにまとめたものです。