東京大学政策評価研究教育センター

行政データを活用した実証研究(2)――がんサバイバーの復帰後の仕事環境

論文:Heinesen, E., Imai, S. and Maruyama, S. (2018) "Employment, job skills and occupational mobility of cancer survivors," Journal of Health Economics, 58: 151-175.
著者:Eskil Heinesen(Rockwool Foundation)、今井晋(北海道大学)、丸山士行(シドニー工科大学)


画像提供:Fast&Slow / PIXTA(ピクスタ)

目 次
はじめに
がんサバイバーの仕事復帰
仕事の内容は教育水準で決まる?
医療情報を含む行政データの活用と分析の枠組み
職種・仕事の内容をどのように捉えるか?
新しいエビデンス:がんサバイバーの仕事復帰は職種に左右される
行政データが個人の重大問題のメカニズムを解く鍵が眠っている

はじめに

本稿では、「CREPEFR-12」(以下、FR-12)で、丸山士行氏(シドニー工科大学)に紹介いただいたデンマークの行政データを活用した、がんへの罹患が仕事復帰の際に及ぼす影響を明らかにした実証研究を紹介する。

「FR-12」では行政データの強みを5つに分けて紹介したが、この研究はまさにそこで挙げた強みが発揮されたものである。この研究では、病院記録などの行政データを用いて、がん診断後5年生存者の約2万5000人について、各個人ががんと診断される2年前の就労状況、罹患したがんの種類、がん診断後4年目の就労状況を、性別・年齢・収入などの変数に加えてデータセットを構築して行った分析である。

この研究で、どのように行政データの特徴をうまく活用して実施し、従来のアプローチとはどのように異なったインプリケーションが得られたのかという点に特にフォーカスして、丸山氏に解説いただいた内容をお伝えする。

がんサバイバーの仕事復帰

本稿で紹介する研究は、がんを経験した人々が治療のために一度仕事を辞め、その後再び働こうとする際の労働市場における状況を分析したものである。復帰に際して、どのような仕事が選ばれているのか? がん罹患前と同じなのか、変わるのか? 復帰のしやすさを左右する要因は何か? という点に着目した分析である。この丸山氏らの研究で重要な役割を果たすのは、デンマークの医療関係の行政データだ。そこには、罹患したがんの種類なども含めて、がん患者の診断記録や属性情報が含まれている。

近年、がんは決して不治の病ではなくなっており、病気を乗り越えて再び通常の生活に戻り、その後も長く生きられる人もめずらしくはなくなっている。がんを患った場合には休職や離職をして一度仕事を離れ、治療後に再び働き出す人が世界中で増えている。このような状況を反映して、「がんサバイバー」の人たちの雇用に関する研究も蓄積されつつある。

言うまでもなく、がんの罹患は深刻な健康ショックに加えて経済的にも重大なショックである。既存の研究では、がんの罹患は、その後の労働市場において、人々にマイナスの影響を及ぼすということが指摘されてきた。特に、がんサバイバーが再び働き始めようとする際の環境を左右する要因として、各人の教育水準が重要だという示唆が得られてきた。これらの研究では、教育水準が高い人はがん罹患後も労働市場に戻ってくることができるけれども、教育水準の低い人は労働市場に戻ってくるのが難しい。つまり、がんの罹患が労働市場でのパフォーマンスに与える負の影響は、教育水準の低い労働者ほど強く出てしまう、というのが一般的な結果であった。

それに対して、この丸山氏らの研究は、既存研究の結果に対して、改めて次のような問いを投げかける。「仕事復帰の際に重要なのは本当に教育水準なのか?」「なぜ教育水準が効いてくるのか?」 こうした疑問を深掘りし、教育水準と仕事復帰の間に関係の背後に何らかの要因が潜んでいるのではないか、そうだとすればどんな要因なのか、を明らかにするために詳細な分析を行った。そして、たどり着いた1つの可能性は、仕事復帰の状況を左右する直接の要因は教育水準ではなく、むしろ人々ががんを患う前に就いていた職種や、そこでの仕事の内容ではないか、という点である

仕事の内容は教育水準で決まる?

既存の研究では「教育水準」と、ややあいまいに括られていた要因の背後には、職種や仕事の内容が潜んでいるのではないか。この仮説が丸山氏らの研究の出発点である。

一般的に、教育水準が異なる人々は、その職種や仕事の内容も異なる場合が多い。教育水準の高い人はホワイトカラーの仕事に就いてオフィス内で働くことが多い一方で、教育水準の低い人は工場や建設現場など肉体的にもきつい仕事に就いていることが多いと考えられる。このことが1つの要因となって、がん治療を経た体力の落ちた状態で労働市場に復帰しようとする際の行動や結果に、大きな違いが生まれているのではないかと考えたのである。

医療情報を含む行政データの活用と分析の枠組み

この問いを実証的に確かめるために、丸山氏らは、デンマークの病院関連の記録でがん患者の詳細な履歴が含まれた行政データである「Danish Cancer and Hospitalization Resisters」の2000~2005年の記録を利用した。具体的には、「がんと診断される2年前から働いていた人のうちの診断後5年生存者の4年目の労働市場でのパフォーマンス」に着目して、30~60歳の人々についてのデータセットを構築した。

このように構築したデータセットのサンプルサイズは、合計で2万5094である。がん履歴には、胃がん、大腸がん、肺・気管支がんなどといった、詳細ながんの種類が含まれている(ただし、皮膚がんなど一部の特殊ながんは分析から除いている)。またこの行政データは、各人の就業状態等の記録もあわせて用いることが可能となっている。労働市場でのパフォーマンスとしては、働いているか否か(雇用、失業、非労働力)、フルタイム就業か否か、障害年金を受け取っているか否か、がん治療の前後で同じ職種・場所・産業で働いているか否か、さらには所得などのデータに着目している。

がんの罹患ことが、その後の労働市場でのパフォーマンスにどのような影響を与えるかを厳密に分析するための標準的な方法の1つに、「がんに罹患したか否か」以外はほぼ同じような2つのグループを作って、前後の比較を行うというものがある。ここでは、上記のがんサバイバーのデータに含まれる人々と似たような特徴を持っていて、がんを罹患していない人々で構成されたデータセットを構築して、同じ期間の労働市場でのパフォーマンス変化を比較するという方法をとる。こうした分析のフレームワークは、「差の差分析(Difference in Difference: DID)」と呼ばれている。何らかのアクション(処置)を受けたグループと受けなかったグループで、処置の前後を比較するというものである。ここでは、がんに罹患することを「処置」と解釈し、がんに罹患した人々で構成されたグループを処置群、がんに罹患しなかった人々で構成されたグループを比較の対照群と位置づけている。

対照群のデータは、同じく2000~2005年の記録の中でがんと診断されていない、30~60歳の仕事をしている人々から、性別や年齢ごとにランダムに抽出し、適切に比較可能なグループを構成した。このグループとがんサバイバーのグループと比較することで、がんの罹患という原因が、その後の労働市場での結果に与える影響の因果関係に迫ることができるのである。

職種・仕事の内容をどのように捉えるか?

丸山氏らのそもそもの問題意識は、がんを罹患することがその後の労働市場のパフォーマンスに与える影響は、職種や仕事の内容によって左右されるのではないか、というものであった。そこで、上記のデータに加えて、職種・仕事の内容を詳細に把握していく必要がある。そのために利用されたのが、アメリカの職業コードを提供する「O*NET」だ。

O*NET自体はアメリカの職業コードであり、それが必ずしもデンマークの職業分類にそのまま当てはまるわけではない。またデンマーク国内で見ても、数十年も経過すれば、既存の職業分類に当てはまらない仕事が新しく出現したりもする。しかし、O*NETに含まれる1000以上の細かな職業分類の上位分類を使ってやや大雑把に分類していけば、無理なく職業分類をデータセットの各人に割り当てていくことができる。

丸山氏らは、次の6つの仕事の特徴に着目して分類を行った。すなわち、(1) 分析的な仕事、(2) 対人関係が重要な仕事、(3) 身体を使う仕事、(4) 手先等の器用さが重要な仕事、(5) 視覚が重要な仕事、(6) 接客を伴う仕事、といった特徴である。特に、分析的な仕事、対人関係が重要な仕事は「認知的な仕事」、身体を使う仕事や器用さが重要な仕事は「マニュアル的な仕事」と区別することができて、前者には高学歴の人々が、後者には低学歴の人々が就いていることが多い。このようにして、がんと診断される2年前に就いていた仕事と、診断4年後についている仕事を、行政データに記録された就業関連の情報に基づいて分類していくことで、この研究の問題意識に答えることのできるデータセットを構築したのである。

ただし注意が必要なのは、行政データといえどもがんに罹った要因まではコントロールができていないという点だ。がんの発症リスクを高める飲酒、喫煙、麻薬などといった履歴は、たとえ診察の問診記録に残っていたとしてもすべて自己申告であり、「FR-12」で紹介した「報告バイアス(reporting bias)」が含まれていると考えた方がよいだろう。

新しいエビデンス:がんサバイバーの仕事復帰は職種に左右される

それでは、がんサバイバーは実際にどのように再び働き始めているのだろうか。まず大まかな影響として、がんを経験した人々はそうでない人々と比べて診断4年後の就業率が7%ポイント低く、収入も10%低下するなどの結果が見られた。また、がんサバイバーの雇用に与える影響の大きさが教育水準に関連することも確認された。これらの点は、既存研究の結果とも整合的である。

さらに、丸山氏らの中心的な問いである職種や仕事の内容との関係について、詳しく分析結果を見ていこう。中心となる結果は非常にシンプルで、「がんと診断される2年前にどのような仕事に就いていたかが、がん治癒後の労働市場でのパフォーマンスに大きな影響を与えていた」というものである。

まず、がんを経験する前後で、仕事を変えるような行動はとられていたのだろうか。直観的には、がん治療を経て身体が弱くなっていることも多いと思われるので、たとえば身体的にきつい仕事に就いていた人は、仕事復帰の際に比較的負担の軽い仕事に移るような対応がとられるのではないかとも考えられる。しかし意外なことに、実証分析の結果は、「基本的にはがん罹患前と同じ仕事に戻る人々が多い」というものだった。

認知的な仕事に分類されるような職種、たとえばホワイトカラーの事務職といった、身体的に負担の少ない仕事に就いていた人の場合は、がんを経ても同じ職種に戻りやすい一方で、工場や建設現場などでの肉体労働の仕事に就いていた人の場合は、同じ職種に戻るのは簡単ではないだろう。しかし、後者の人々はそれまで未経験のホワイトカラーの職に移ることは実際問題として難しいと考えられるため、結果として労働市場に復帰しないことも多いのではないかと考えられる。

次に、がん治療後に復帰する際に、仕事のミスマッチが生じることによって、がんの経験が労働市場のパフォーマンスにマイナスの影響を及ぼしている可能性があることが示唆された。これは政策的も重要な論点であり、復帰時の労働者と仕事のマッチングをサポートできるような施策を打てば、労働市場に復帰しにくいような仕事に就いていた人の雇用も改善することができるかもしれない。とはいえ、職種を大きく変える際には職業訓練の機会なども必要となるが、こういった方法は、言うは易く行うは難しで、訓練施策自体の効果を発揮させるのにも難しい場合は多い。この点は、別の政策的なエビデンスも考慮して検討を深めていく必要のある部分の1つだろう。

また、年齢的な問題もある。がん治療の後に仕事復帰しようという人々は年齢的にも40代、50代くらいであることも多く、企業側のニーズも考慮すると、現実的にも大きく異なる職種に再就職するのは困難を伴う可能性が高い。そのため、仕事のマッチングサービスだけでは不十分で、より生活上の保障や手厚いサポートなどが必要となるかもしれない。この研究では、どういった特徴の人々が、がん経験による仕事環境のマイナスの影響が強く表れるのかについての実証結果が得られた。そのエビデンスを活かし、就労サポートや生活保障などに関する具体的な政策についての議論を深めるとともに、今後のさらなる研究の蓄積も期待される。

行政データが個人の重大問題のメカニズムを解く鍵が眠っている

丸山氏らの研究(Heinesen, Imai and Maruyama 2018)のテーマである「がんサバイバーの仕事環境」は、特に50歳代くらいの人々にとっては想像しやすく、重要な問題ではないだろうか。しかし、実際にこうした分析を行うためのデータは、通常の調査ではなかなか得ることはできない。一方で、丸山氏らはデンマークの行政データを活用することで、個人の詳細な属性情報や就業情報に加えて、がんの診断記録もあわせて用いることが可能となったのである。

仮に、がんサバイバーを対象として、診断の2年前までさかのぼって質問する回顧的な調査が実施できたとしても、行政記録のように正確な情報を得るのは難しいだろう。また、がんの診断を受けた人たちに長期にわたってパネル調査を行うのはもっと困難だろう。行政データは、こうした困難を乗り越えて、政策的にも個人にとっても非常に重要な情報を科学的な分析に活用することを可能としてくれるのである。この意味で、この丸山氏らの研究も行政データの強みが十分に発揮された研究であるといえる。

日本で同様の分析を行うためには、詳細な病院記録と人々の属性情報をつなげるような仕組みが必要となる。しかし、現在のデータの研究利用環境では、病院記録のデータは退院後の患者の記録を追跡することはできないし、就業など属性情報とも接合されていない。「FR-12」で言及したように、行政データの研究利用に際しては留意すべき点もさまざまに存在するが、がんサバイバーの仕事復帰のメカニズムを明らかにしたこの研究の結果からも、行政データから得られるエビデンスの豊かさを実感いただけたのではないだろうか。日本での行政データの活用には、法律上の問題や自治体間の問題、個人情報の問題や国民への理解など障害がさまざまに存在するが、デンマークのような北欧諸国も長い歴史の中での試行錯誤を経て、現在の利用環境にたどり着いたものであることは、「FR-12」で紹介された通りである。一朝一夕で解決できるような問題ではないが、データの整備と、それに基づく科学的な実証研究の成果を活用することの重要性に向き合い、理解を普及させながら着実に進めていくことが、エビデンスを蓄積し、政策に活かすために必要なプロセスとなるだろう。

CREPEフロンティアレポートシリーズはCREPE編集部が論文の著者へのインタビューをもとにまとめたものです。